土曜日, 11月 15, 2008

日本語ねぇ

マルチメディアがあるじゃない。

例の、日本語が滅びる時関連のあれとかこれとかを色々読みながら、何で「言語(ことば)」にこだわるかねー、とか思っていた。

私は、本が好きな子だったし、今でも、文章を読むのは大好きだけど、「伝えたい何か」が、必ずしも文章で表現される必要はないんじゃないかと思っている。

前に、ほんとに、ちょっとしたメモやったんやけども、理解・共感てなタイトルで書いた「音でも匂いでも」て感性は、とても大切にしたいと思っているもののひとつで、私は、(結構言葉にこだわる方である割に)「言葉」よりも、「伝わる」って事の方に、ずっと重きを置いている。

第一に、私は「人の心性の普遍性を信じていて」(参照)、一方で、それが「言葉」に回収される部分ってとても小さいと思っていたりするんだわ。

#だからこそ、逆に、それがきちんと「言葉」として表現されていると素晴らしい!!!!とも思ったりする訳やけども、一方で、何か伝えたい事があるのならば、それを「言葉」で表現するのは、二次的な問題だとも思っている
#私が、ゲーム画像を使いたいのも、操作説明動画を作ったのも、言葉に回収するのが困難だと(私には)思えたからで、とりあえず、コントローラ握ってくれよ、そしたら、きっと分るから、みたいな思いがある訳なんだわ
#ただ、子供に言わせると、私の(言語による)感情表現は、かなり稚拙で、無駄に詳しい割に、熱さが伝わってこない、と、言われている
#自分の感情表現で一番幼稚だなーと思える部分は、形容詞が「すごい」(と、それに類する語)ばかりなのと、擬態語が無駄に多いところやけども、詳細が説明的なのも良くないらしい

そりゃね、文学やってる人が、言葉(言語による表現)にこだわるのは当然ちゃ当然なんやけども、一方で、文学が目指しているものを考えるならば、「規範的な日本語」である必然性って、全然ないんじゃないの?とも思えるねん。

なんつーか、ブンガク(小説)てば、「言語芸術」じゃないと思うのよ。もしかしたら、「詩」はそうかもしれないけども。

ブンガクてば、言葉でもって、ある種の英知を、多くの人に、頭ではなく心で分らせる作業なんだと思っていて、人の心性の普遍性を信じている私としては、それが、どんな言語を用いていたとしても、伝わるものをこそ、ブンガクと呼ぶんじゃないのかなぁ、とか思っているんだわ。

優れた翻訳あってこそ、て部分はあるんじゃないかとは思うけど、多彩な言語には、それぞれ多彩な語彙がある訳だし、時には、そのまま使ってもいいんじゃないかと思うし――「Kawaii」とかまんまじゃなかったっけ?――いよいよ言語化が不可能になったらば、音でも絵でも動画でもいいじゃないのさ、伝われば。

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