ちゃうやんか。宙返りは緊急回避になってない。てかゲージが一個減る。これじゃ使えない。タメのがずっと使える。
むしろ使えるのは、壁に沿って転がるやつで、無敵になってる。後。カトンボの当りって殆ど無いみたい(な感じ)だから、飛んでくる弾だけ避けてたらよさげ。
日々の記録を綴る。予定ではあるけども、只今使い方の練習中です。
ちゃうやんか。宙返りは緊急回避になってない。てかゲージが一個減る。これじゃ使えない。タメのがずっと使える。
むしろ使えるのは、壁に沿って転がるやつで、無敵になってる。後。カトンボの当りって殆ど無いみたい(な感じ)だから、飛んでくる弾だけ避けてたらよさげ。
うーむ。宙返りやっても無敵になってないじゃん、と思って、もう一回wikipediaの記述を読んでみたら、宙返りが緊急回避になったのは、前作までと言う事で、思い違いだったみたい。
サブウェポンの違いをまだ把握してなくて、あったら取る、てのは場合に寄っちゃまずいのかも。
当り判定は、自分が思っているよりも小さいみたいで、当ったと思っても当ってないトコもあって、やっぱ、見て避けるよか、覚えて避ける、が正解ぽい。
動画はすごく勉強になって、助かるなーと思う。ここどうするんだよー、と思ってる場所の回答みたいのがちゃんと出てる。
尤も、下手は下手なりに自分のパターン作ってくのが楽しいてのもある訳やけど、無理無理と思ってたとこだって、そーやったんかーと教えてもらえて、だけども、残念ながら実際に自分がそれを出来るかどうかは、実は別の話やったりして、そう言う意味じゃ、くっそー、とは思うけども、ちゃんと答えがあるんだ、てのは、とても(私の)精神衛生上はよろしいのだった。
あーあと、ちょっとしたメモやけども、やっぱ録画したいなーと思いつつ、MAME共存した方が何かと便利だし、と、試しにパス変更したらちゃんと通ったよ。ヴァージョン違いとか、クローンの利用にどうぞ。当然どうなっても責任は持たないけどねw。
それから、とてもうっかりと、全然そんなつもりはなかったのに、「このゲームの設定」のとこで、思ってもいなかったボタン設定にしてしまって、元に戻せなくなって、とても困って、一瞬ThunderMAME32jpの、再インストールを考えたけども、cfgwinの中の、そのゲーム用の***.cfg捨てたら、元に戻ったから、私みたいなへました時は(あまり居ないかな?)、トライしてみて。こっちも当然責任は持たないけどね。
と言う訳で、お試し録画をやってみたら、大丈夫だったんで、1941カウンターアタック1面の動画をうp。むっちゃサイズがでかいんで、ちょっと躊躇したけども、これもひとつの実験として、一度、そのままうpしてみるね。
ダメぽいみたいなら、そうなった時にもう一回考える事にする。
そうそう、ほんとは、この録画よりももうちょっと上手いんだからね!試しにやったやつだから下手なんだからね!
やっぱりでかすぎるみたい。うpが終わらない。ちょっと削るのと、形式かえるのとだったら、どっちがいいんだろ?
あかん。.aviからそのまま.mpegにしたら、サイズはだいたい半分になったけども、無茶苦茶画質が落ちる。やっぱムービーメーカー経由の方がええんやろか?と、ムービーメーカーに放り込んだら、勝手に横長画面になってる。
何か、思いの外めんどい。あー、そうそう、うpにあんまり時間がかかるんで、ここに至って初めて動画の規定読んだら、最大が100Mだって、1面だけで331Mだもん、切るしかないのかな、やっぱ。
しかし、切ろうと思ってavi編集ソフトを使ってみたら、久しぶりなんで既に使い方を忘れていたばかりじゃなしに、元よりサイズが大きくなっちゃうし、一方のムービーメーカーじゃ、画面の縦横非の変更はうまいこといかんし、あんまりしゃくなんで、サイズの上限に合わせて録画しなおそうとやってみたら、ほんまにちょっとしか撮れなくて、これじゃ下手さすら分らんような、とても残念な動画になってしまったけども、手間隙かけて何もないんじゃもっとしゃくなんで、とりあえずそのちょびっと動画をうpした。
縦シューの動画編集って、別のむずさがあるねんな。
と言う訳で動画を発見。便利な世の中になったね。
うー、色々勉強になるなー。撃墜率とか見てると、必ずしも鬼ウマ、てんでもなさそうなのが、一層私に優しい(ような気がする)。
バイタリティが減るのが嫌で殆ど使ってなかった、宙返りだったけども、見てると敵弾まで消せるみたいで、タメよか使えそう。
まだ、2回しかヤヒチ出してないけど、あれってライフ全快みたいで、ボス戦の前に取れて、助かったーと思ったんやけど、取る前に宙返りやってて、あーなるほど~、そーゆーふーに利用するんだなーと感心した。
後、壁にぶつかっても大丈夫らしいのは調べて分ったけども、ぶつかりどころが、結構一緒で何だか嬉しかった。
なんかすっげ楽しくて、今日もまた1941カウンターアタックを遊んでしまった。
前の時に、何がどうなってるのか全然分らなかった、ラスト1個前(か、2個前)の巨大戦車のとこやったんやけども、今日プレイして、前の壁を突破して砲台の前の場所に入れる事にやっと気が付いた。
前の時は、壁に挟まれてまるで身動き出来ないのに、左右から攻撃されて、一体どーせーちゅうねん??と、ほとほと困り果てていたのだ。
後、2面まではコンティニューしないで進めるようになった。後、カトンボは、前におびき寄せて迂回、で、多少しのげるみたいだった。
なんか私、このゲームがかなり好きぽい。リプレイ探そう。てか、リプレイねー、上手すぎて参考にならない事が結構多いねんけども、程良いリプレイあるかなぁ。
にしても、早くコントローラー買い換えないとな。
んで、勢いで、19XXもプレイ。コンティニューしまくって、とりあえずクリアした。
が、1941よかむずかった。弾幕がハンパない上に敵がすごく固くて、面の数も多かった。ボムが使えるようになって、ボムはやっぱ爽快感が違うわね。後、タメも多少使えるようになったけど、最初、自機が出してる緑のレーザーが、敵の攻撃なのか自分の攻撃なのかよく分らなくて、無駄にびびってしまった。
19XXだと、タメを使うと、ロックオンして、ホーミングになってて、硬い敵に向いてるちゃ向いてるけども、折角ロックオンしても、敵がとっとと画面外に逃げちゃう事も少なくなくて、もうちょいパターン把握しないとダメぽい。
後、この19XXの面白いとこと言うか、(私にとって)新しかったのは、縦シューとは言え必ずしも「前(=画面上)」進むわけじゃないとこで、最初、追い詰められるように後退してしまって、こんなんでええんやろか?てか、戻った分を進みなおさんとアカンのやろか?と、とても不安になってたけども、つまりそんな風なルートだったと、ボスに出合って分って、1941の狭い通路をほぼ横に進んだのの進化形みたくなってて、とても新鮮だった。でもごっつむずい。ものすごい弾幕。
後、雑魚でも固いけど、ボスはほんとにハンパなく固い。だけどもコンティニューしたら、すぐにパワーアップ出来るようになってるから、ボム使い果たしたら、いっそ死んだ方が倒しやすいんじゃないかと思った。ボス戦の途中で死んだりしたら、きっともう100円使っちゃうよ。
それから、後は、アテナのはてな?と、魚ぼこをクリアした。
アテナのはてな?は、最初は問題が簡単だったけど、ステージが進むと難しくなって行った(ように思えた)、面白かったの、画像系の問題で、動く絵とか、重なった文字とかが新鮮だった。
魚ぼこは、パズルボブルによく似たタイプのパズルゲームやねんけども、最初、プレイ方法が分らなくて、辞めようかとも思ったけど、魚太郎がとても可愛いので、せめてやり方が分るまではプレイしてみようと思って、ロープを「引く」と「離す」でボールの飛距離が変わってくると言うのがやっと分って、それから、第○話のところのタイトルがヒントになってると分って、みたいな感じで、把握しながら進めたけども、ロープの引き具合と飛距離の「微調整」がイマイチ把握しにくくて、「手前」「中央」「奥」程度の精度でしか調整できなかった。バネの長さで測れるのかな?
横長の縦シューってあるんだぁ、とびっくりしたのが1944 THE LOOP MASTER。
最初はものすごくやり難いなーと思って、もしかしたら、画面切れてんじゃないの?と思ってたけども、結構易々パワーアップできるみたいなんで、もうちょっと、進んでるうちに、なんちゅーか、絨毯爆撃するみたいな感じに、左右に大きく動いて行くとワリといいのかなぁ、とか思った。
ボムもあったけども、ボス戦用に使うよりも、囲まれた時に使う方がいいのかな。援軍見たいのがやって来て、画面いっぱいに爆撃するみたいな感じだった。
あー、後、ライフとバイタリティって違うんだと知った。こないだ1941カウンターアタックでライフ制って書いたけども、残機がライフで、ゲージがあるのがバイタリティ制、というのが正しいみたい。
これも、その場でコンティニュー出来るから進んでみようかなーと思ったけども、全16ステージとは、ちょいとびっくり。まだ3面までしか遊んでないんだけども、一気に全部は時間的にしんどいかなぁ。
質問に答えるのは、何より自分の為になると思う。
私の場合なら、(未熟ながらも)攻略サイトとかやってる訳で、望ましい状態てのは、たぶん「読めば分る」ようになる、て事やと思ってる訳やけども、実際問題、自分一人で全てをカバーするって、不可能だと思ってるのよ。
だからこそ、関連サイトへのリンクも貼ってる訳やけども、それより何より、他所様のサイト読んでると、勉強になるなーと思う事ってすごく沢山あって、おお、凄い凄い、と、無責任に感心するような事って少なくない。
そんなん読んでると、ああ、説明が足りなかったなー、とか、ここは不十分だったなー、とか、全然ダメじゃん、とか、自分の(1)「説明力」や「説得力」の足りなさを、見せられちゃったりもするんだわ。
それとは別に、知ってる事を投げたなら、知らなかった事が沢山返ってくる、てのは、ウェブの大いなる魅力で、これを知ったのは、まさに、自分がサイトを持ったからこそ得られた情報で、投げっぱなしは(自分的には)好ましくないんじゃないかと思っているけども、「返ってくる」「事もある」のは、とても素晴らしい事だと思っている。
後、想定外の質問てのは、新たな「視点」を得るチャンスでもあって、ああ、そうなのかー、と、(たぶん)ウェブを得てなかったら思いもしなかったような「視点」に出会えたのも、(私にとっては)大きな収穫だったと思っいる。
そりゃね、もしかしたら、「質問者」の為にはなってない場合もあるのかもしれないけども、知ってる事を開示するてのは、開示したもんにとっては、とても得る事が多いと思っているんだわ。
後、「教える」てのは、「説明の練習」の場でもあると思う。
好むと好まざるとに関わらず、説明しなきゃいけない場面に出会ってしまう事って、決して少なくない。
私は、利己的なので「相手の為になるメリット」と「自分の為になるメリット」を比べたならば、後者を取るのですよ。
ググレカスには笑ったけども、相手の為にならないから、程度の理由で、説明を放棄するのは、とても惜しいと思う。
たださ、一番怖いなーと思うのは、「間違った説明」をしちゃう事。だけどね、だからこそ、開示する方がいいんじゃないかとも思うのよ。明らかに「相手」の為にはなってないけども、間違っていないか?を確かめたりもするし、注意深くもなる。だから、(たぶん)勝手に自分で思い込むよりもマシなんじゃないかと思うし、何より、開示したなら、間違いを正してもらえる可能性も、ずっと多くなるじゃない。
きっとね、「聞く」よりも「教える」方が、最終的に自分が得るものって、ずっと多いと思うよ。
てか、すごく楽しかったんで、ついついコンティニューしまくって、1941カウンターアタックを、さっきクリアした。
いやさ、何気にプレイしたら、絵がすごくカッコよくて、何より、へたれに嬉しいライフ制の上にその場復活の上に復活時には無敵でもって、コンティニューの時までその場復活。
いやこれ、突っ込んだら行けるんじゃないの?と思ったら、ほんまに行けて、むっちゃ楽しかった~。
ボムは無くて、パワーアップアイテムでパワーアップして、縦シューだけども、地形、と言うか、結構ぐにゃぐにゃ(?)したところも通るようになってて、何で飛行機なのに、「道」に沿って飛ぶんだよー、と思えるぐらい狭いとこもあったけども、それはそれで新鮮だった。
コンテニューしたっても、瞬殺されて、湯水のごとくコイン入れるって感じじゃなくて、あーもう、もうちょっとやったのにーきぃ~、と、もう一枚入れるて感じの(私にとっては)程良い死に具合と、スピード感のある構成で、中々の爽快感。楽しかったなぁ。又やろう。
そうそう、ラスボスの一個手前のボスの面で、やっと、左下のゲージは、「タメ」ゲージだったんだと気が付いたんで、これを利用してみようとやってみたけども、イマイチ上手い使い方が分からなかった。後で調べてみよう。
あー、後、ラストの3機のステルスみたいのよりも、その一個前のボスの倒し方が結局最後まで分らなくて、結果から先に言うと、無敵時の攻撃と体当たりみたいな、消耗戦でやっと倒せて、たぶん、ここで一番コインを消耗した事になるんだろうな、とか思った。
あれは、どうやったらいいのかなぁ??未だに分らん。
後、勝手に「カトンボ」と呼んでたけども、ヘリコプターの群れもかなりうっとおしかった。狭い所で囲まれると、微妙に削られて、パターン把握したら、マシになるんやろか?それとも、こっちの座標目指して来るタイプなんやろか?そこら辺もロクに把握出来ないままだったなぁ。今になって考えると。
とてもとても時間が足りないように思えて、むっしょーにイライラする。
私は生きてる間にどのぐらいの数のゲームを、ある程度は得心できるぐらいまでプレイ出来るんだろ?
全然関係ないけども、書いてるテーマに関係あるなしに関わらず、一日一個のスナップショット(と、それに伴う感想なり解説なりを加えて)を公開しようかなー、とかぼんやり考えている。
もっと言うと、動画の方が(自分的には)より好ましいなーとも思っているけども、動画を作るのはそれなりにめんどくて、何だか時間が惜しいようにも思えてしまうのだった。
歳を取るてのは、強欲になる、て事なのかもしれないな。
食べた事ないものを「切望」する事は出来ないけども、食べた事あるものを「もう一度」と「切望」する事はある。経験値が必ずしも、良い方向に向かうとは限らないよなぁ。
みたいな事とは直接関係無いけども、「(形にして)残したい」てな「欲望」が、私は結構強いようだと思ったら、ひょっこり思い出した。
おにいの余命が限られてるのを知った時に、一度神戸からこっちに、「生きてる」おにいに会いに戻った。
不器用なおにいは、そんな状態――うちらは、余命3ヶ月と聞いていた。おにいがその事を知っているのかどうかは、聞かなかった――だったにも関わらず、道の話――どうやって戻った方が楽か、とか、新しいルートが出来た、とか、そんなの――ばっかりしてて、とは言えうちらも何か特別なネタがあった訳じゃなく(考えてみると、うちらも下手と言うか、不器用だったと言うか、おにいと似たようなもんやな)、いっしょになって道の話をしてた。
が、そんな事をだらだらしゃべってる折に、どんな流れから、おにいは、何だかここんところは、TV番組の録画に力を入れてるみたいな事言ってて、なんでTV?とは思ったけども、一方で、「残したいもの」を意識してるんだなー、みたいな事はなんとなく察する事も出来て、「残すもの」みたいのを意識したら、とりあえず、て感じで、ケータイカメラが思いついて、そこに居たみんなの写真を撮ったりしたんだわ。
業ってもんなのかもしれないよなぁ、とは思うけど、ただの人のうちらだって、やっぱり何かを残したいって思ったりするんだよな。
自叙伝を残そうって人も少なくないけども、それでもやっぱり、そんな文章をしたためるのは、たぶん少数派で、TVを録画したり、写真を撮ったり、みたいな事をする方が、多いんじゃないかと思う。うちらの大部分は、文章を書くような生活習慣を持っていないもんね。
スナップは、4-Dウォーリアーズ。以下の解説は、ThunderMAME32jpより。
4-Dウォーリアーズ 発売年:1985 開発元:コアランド 発売元:セガ システムボード:セガ システム1 CPU構成[Z80 (2)] 音源チップ[SN76496 (2)] 表示領域[256x224] 表示色数[1536] スキャンレート[60.000000Hz] コントローラ:8方向レバー+2ボタン ジャンル:アクションシューティング サポートバージョン:v0.34連射可能なビームと、制限のあるレッグスウエポンを使って、 4次元世界を守ることを目的とした、横スクロールタイプのアクションシューティングゲーム。 画面上部より裏世界へ移動できるという設定が、このゲームの特徴である。 操作方法は8方向レバーで移動、ビームボタンとレッグスウエポンに2つのボタンを使用する。 3つのエリアのボスを倒すと、最終ボスの魔魂生物「ゴーサム」が登場する。 余談だが、主人公の姿勢がちょっと気になる。
私の感想は、流石に今となってしまうと、「つまんないゲーム」て感じがしたけど、「画面上部より裏世界」てのに気が付く前にやめちゃったんで、それぐらいは試してみても良かったかな、と、解説読んで思った。
ワープゾーンのあるSTGたら、うちにあったファミコンゲームだと、スーパースターフォースにそんなんあったように思うけども、あれは、お店に入ったようにも思えるんで、ワープと呼ぶのは適切じゃないのかな?何か違うゲームの事と混同してるんやろか?後は、グラ3のボーナスステージで、どっちも「自機」を繰ってのSTGで、改めて、人型のアクションシューティングって遊んでないよなー、と思った。
そう書いてから、キングスナイトがあったじゃんか、と思ったけども、あれって、「一応」アクションRPGて事になってたんだよなw
お気に入りの機能を(やっと)知って、そっちにお気に入ったゲームを登録。
ちょっとのつもりが結構楽しくて、だけどもどれも1面ぐらいまでしか進んでないんで、先々の難易度が不安やねんけども、コンティニューなりセーブなりを使ってでも先を見てみたいのが結構あるな。
後、今まであんまり好きじゃなかった、ファイナルファイトみたいなタイプの、敵を倒しながら前に進んでいく系のゲームが、やたらと楽しいと感じるようになった。なんだかスカッとするんだよねー、大暴れしてる感じがさ。
わー面白いなぁ。ファイナルファイトみたいな、と書いたらば、ファイナルファイトタイプみたいな呼び名がちゃんとあったんだ。あんまり好きじゃなかったからこっち系の事って殆ど知らんかったけども、そう言えば人気あったよなぁ。
そうそう、移動方とか視点が似てるけども、もうちょっと移動方向の自由度が高いがんばれゴエモンみたいなタイプには何か呼び名があるのかな?……ないみたい。
てか、今日は軽いなぁ。昨日はすごく重くて、何かの影響なんやろか?とか思ってた。
何かの影響と言えば、夏休みの影響を、今年は、今までと違う形で実感した。
前は「読書感想文」とかやってたじゃない。あれって、この頃は時々問題になってるけども、私が始めた頃は、まだそれほど世間にネットが浸透してなかったと言うか、宿題代行みたいのが、さほど騒がれてた訳でもなくて、それなりに楽しんでやってた訳やけども、あの読書感想文は、夏休みの終わり近くになると、突然アクセスアップしたりもしてて、面白いなーとか思ってたのね。
が、子供も育ってしまうと、なんとなく「学校関連」の事への関心も薄れるし――別の見方をするならば、ガッコの事だけ考えていられたぐらい「のんびり」した時代だったのかもしれないなぁ、とも思うけど、実際のところはイマイチよく分らない――、あのぐらいあったら、それなりに利用できるんじゃないの?みたいな気分もあるし、何よりめんどくさくなってしまったんで、そのまま止めちゃって、「夏休み」というものが、何だか私の生活から微妙に遠ざかってた訳やけども、今年の夏は、おーこれが「今」の夏休みってもんなんかもしれんなー、と思うような、(私にとっては)楽しい出来事がひとつあったのよ。
Youtubeのアカウントの方に、14才の少年(日本人)から、友達申請されたのだった。
脱衣のエロが良かったのか、バイオのグロが良かったのかは分らんけども、相手の若さに「リア厨かよ!?」とびっくりして、おお、夏休みやったんや、と気が付いた訳。
当たり前ちゃ当たり前なんかもしれんけども、休みになるとネットの子供率って上がって、そうすると、こんな面白い出来事も起きちゃうんだよねw
画像は、本文の最初の方と「だけ」多少関係がある、MAMEのスナップショット。
あれのお陰で、何だか再びMAMEブームが再燃してて、もっともっとプレイ時間が欲しいなーと思ってしまう。チートに走る気持ちも分らんでもないよなぁ、とも、ちょっと思ってしまった。
世界にはほんとに沢山のゲームがあるもんなぁ。
あれは、誰だったんだろ?
私は、(漠然と)きよえちゃんだったんじゃないかと思ってるけども、どうにも思い出せないんで、とても残念だと思ってる。
今朝、と言っても、只今の仕事が深夜勤なのと、ダンナが割と朝の早い時間に出勤なので、私は、只今仕事を終えて帰ってから、朝まで起きてて、おとーさんのお弁当を作って送り出して、それから洗濯して、その後で寝る、てパターンの生活になってて、だから主に「昼間」に寝て、夕方に起きてるんで、「今日のお昼」が、時間としては正しいんやけども、起きた時間がなんとなく「朝」って気分もあって、真昼間でありながら、気分としては、「明け方の夢」って感じがあって、だから、主観的には、やっぱり今朝の夢。
細かいとこは思い出せない。なんだかほわ~~っと、くすばいみたいな楽しい気分がとてもあって、だから、あれはきよえちゃんだったと思いたい。
まぁ、私は、まだ子供で(たぶん小学校の低学年とかそのぐらい)、その誰か(きよえちゃんだったらいいなと思っている)と、なんか歌を歌って遊んでいる。
何を歌ったのかは思い出せないけども、なんとなく交代で歌って、だけども順番に歌うんじゃなくて、お互いに、思いついたやつを思いついたところで歌って、で、その曲がシンクロしたら、手を繋ぐ、て感じの遊び。
手を繋ぐ、って言っても、横に並んで片手を繋ぐんじゃなくて、向かい合って、両手を繋ぐの。
歌って、あ、いっしょ、と思ったら、軽く合わせてる手にちょっと力を入れて握る事になってて、この「握る」タイミングも、二人が気が付くのが同時だと、やっぱりシンクロして、そこで又、あ、いっしょ、と思って相手(きよえちゃんだと思いたい)を見たら、相手もやっぱりこっちを見てて、ここで又、視線を送るタイミングが、シンクロしたのを確認できて、目と目が合った瞬間に、思わず笑っちゃうのも、やっぱりシンクロしたりして、照れくさくて、嬉しくて、そしたら相手(きよえちゃんだと思いたい)もやっぱり照れくさそうに笑ったりしてて、うふふうふふと思いながら、次の歌を歌うの。
シンクロするのが嬉しくてしょうがないから、相手(きよえちゃんだと思いたい)が歌いそうな曲を考えて、そうしてシンクロしたらば、きっと相手(きよえちゃんだと思いたい)も、私が歌いそうな曲を考えて歌ったんだ、ていうのが勝手にちゃんと分って、もう、ほっぺたがぐにゃぐにゃになるぐらい、うふふがこぼれ落ちて、それに、握った手が、ちゃんと握り返されて、だけども、ぎゅっと握るんじゃないの。
あ、いっしょ、と思った時に、ちょっと指先に力を入れて、そしたら相手(きよえちゃんだと思いたい)もおんなじように、ちょっと指先に力を入れて、、戻って来た感触から、あ、いっしょ、と思って、今度はもっとちゃんと握って、そしたら、相手(きよえちゃんだと思いたい)も、もっとちゃんと握って来て、そんなのをずっと繰り返す。
あーそうそう、「やえん」――「野猿」と「矢遠」があって、どっちにしたらいいのか分らないので、ひらがなで表記する事にした――で下ろした木材は、「集材所」に集める、とするのが、林業的には割と正しいみたいに思えた。
前のエントリー木材搬出「やえん」の事で、どこに下ろすのか分らない、みたいな事を書いたけども、川に下ろすにしても、道に下ろすにしても、一旦は一箇所に集めて、それから、集めた木材を目的地に向かって輸送する、と考えると、道、川の区別は(とりあえず)関係無しに、「集材所」へ集める為の一つの方法として、「やえん」がある、とは言えるんだな、と、まぁ、やっと知ったという訳。
まだ、木材搬出関連のリンクが、途中までになってるけども、(私にとっては)最大のポイントと言えるのは、木材搬出には、「集材」と言う過程があると言うのを知った事。
で、続いて、「空気」について、こんな結論に至った、ささやかなエピソードについて書こうかと思ってたけども、それはちょっとおいて置く事にして――と言うか、書くのかどうかも実はあまりはっきりしていない――、ちょっと楽しい(当然、私にとって、だけど)ブログを紹介。
何となく、フランス語っぽいなぁと思っているぐらいで、私には、まるっきり読めないし、何より、ブログのタイトルからして読めない訳やけども、心配無用。文章読めなくても全然大丈夫。
ここは、私がこのblogger使うようになってから、時々なんとなく遊んでいる、「次のブロク」でひょっこり出会った、Minha Paixa~o: Croche^ ――あらら、コピペしても反映されない。元のタイトルだと、[a]の上に[~]が、[e]の上に[^]が、乗っかっていて、こんな乗っかり記号が付いた文字があると、なんとなくフランス語じゃないかと(勝手に)思っている――てサイトのリンクから行った先です。
適当に見たらなんとなく見当つくと思うけども、「かぎ針編み」関連のサイト達で、素晴らしい――と言うかまずいと言うかの判断は、著作権的に微妙なんじゃないかと思うけども――のは、大抵が、出来上がりの写真と一緒に編図(って言うのかな?)が載っているところでありまして――しかも、(たぶん)、雑誌をキャプチャしたもの――、写真見て、素敵!と思って、作ろうと思えば、作れちゃいそうなんですよ、これが、奥さん。
結果から先に言うと、いずれは作ってみたいなーと漠然と思いながら、ぼんやり眺めていると言う状態が、私好みと言うか、結局ずっと可愛い!とか素敵!から先には一度も進んでない訳やけども、眺めるのがとても楽しくて、今日もリンク辿ったりしながら、出来上がりの写真とか、編図の写真とかを眺めてたらさ、あらら、日本語。
カヴァー範囲広いなーと、感心したのが、最初にリンク貼ったサイトだったと言う訳。ここね、結構日本の雑誌からの記事があるの。
編図(?)って、結構世界共通なんだなー、やっぱ記号っていいよなー、とか思いながらも、「素敵」や「かわいい」は結構共有出来るのかもしれないよな、とも思えて、なんとなく、紹介したくなったのだった。
空気を読む、と言うのがどう言う事なのか、(なんと!50歳を目前にして)やっと少し分ったように思えた。
もちろん、この「空気」ってのは、たぶん文脈によって使われ方が結構違っていて、例えば2chのスレッドで、そこまでのログでもうっとくに「終わった」話題を、今初めて出たことみたいな感じの発言に対して「空気嫁」と言うのは分る。この場合は、話(≒話題)の流れを中断した事に対する非難で、過去ログ拾えば、その発言が「場違い」だったり「見当違い」だったりするのは、大抵分る。
結構前に雑誌(ファッション関連の女性誌)で読んだKY特集の例にあった、KYと言うものは、他者不在の自己中を主にKYと呼んでいるように思えて、KYと言うラベリングである必然性をあまり感じさせないものだった。
描かれたシチュエーションに、それぞれもっと適切な表現があるにも関わらず――我侭、自己中心、鈍感、無知、厚顔、幼稚、等――、全てをKYにしてしまっているように見えて、流行語らしい便利な用法だなぁ、と思っていた。
が、違うのだ。いや、違った。私が言いたかったのは、KYについてじゃなくて、「空気を読む」と言う行為についてだった。
差し当ってとても困った事はなかったので、「空気を読む」と言う行為にあまり関心がなく、だから関連書籍ぽいのも読もうと思った事もなく、だから、もしかしたらもうとっくに語られている事なのかもしれないし、逆にものすごくピントがズレているのかもしれないけども、その時は、単純に不思議だなーと思っていたのが、後になって、他にも思い当たるような出来事も出て来て、もしかしたら、こーゆーのを「空気を読む」と言うんじゃないのか?と、突然ひらめいてw、思い当たったら、何だか(私の中でだけ)ものすごい大発見みたいに思えて、記録しておきたいと思ったのよ。
最初――とは言え既にかなり長い前振りになってるな――に結論を書く。
「空気を読む」とは、相手の感情の動きを察知して、相手が望んでいるリアクションを返す事なのだ。
いや、ちょっと違う。相手の感情の流れに乗って、流れに沿った対応をする事なのだ。
うん、これだ。
で、木材搬出の続き。
つっても、ものすごく色んな種類のもんがあるし、何をどんな所でどんな段取りでもって使うのか?みたいのも全然分らんくて、とても混乱している。
んで、この際だから、とりあえず、それっぽいとこを一通りリンクしておく。
一旦、休憩。
5勤開けの休みやし、柿太郎もとりあえず完成したし、で、再びうみねこに戻ろうと思いつつ、「やえん」で蹴躓いて、木材搬出についてのメモを作っておきたくなって、にしても今月こそ新しいコントローラを買おうと思いつつ、それより先に靴を買わなくちゃなーと思いつつ、それもあるけど、美容院にも何とか年内に行っておきたいなーと思いつつ、一方で、もうな~~~んにもしないで三日ぐらい寝続けてみたいなーとも思ったり。
あー、後、蜘蛛の恩返しもいっそうpしようと思ってるんやけども、前に書いたみたく、画質とサイズの兼ね合いがめんどくて、イマイチ乗れない。
ただ、これの加減が分ると、オリスクまではもう一方やったりするねんな。
かし、bloggerのエントリーのgoogleの拾い方は、明らかに異常。「木材搬出」で1ページ目に出てしまった。こうなると、検索エンジンとしての信頼度は、またまた下がってしまうな。
が、折角なんで、タイトルに「やえん」を入れとく事にしようw。
なんか、ものすごくびっくりした。
「やえん」でぐぐったら「もしかしてやえん(野猿)と出たのだ。
素直にそのまま辿って行っても、私が求めるところの「やえん」はない。
「やえん」ってもうとっくに死語になってたん?と驚きつつ、百度とYahoo!でも念の為調べてみたけど、どっちもアウト。
ううう、もしかして、方言やったんやろか?と思って、国語辞書で調べてみたら、私が求める「やえん」は出てなかった。
そんなのまでキャプチャするのはさすがにめんどいんで、コピペしとくね。
と、思って改めてgoo辞書出したらコピペするほど長い文章じゃない上に、調べたいものよりも、広告の方がずっとずっと多くて、何だか微妙にムカついたんで、これもキャプチャして画像で貼り付ける事にした。
と言う事で、私が言いたかった「やえん」はもしかしたら「死語」になったんじゃなくて、元々方言だったのかもしれないなーと思ったけども、ざっくり眺めてみたら、ひとつだけ、(たぶん)私が思っているところと同じ意味で「やえん」を使ってるのを発見したんで、リンクしてみるね。
↑これは、森林からのニッポン再生さんとこにあるエントリーのキャッシュで、コメント欄に書かれてる「やえん」が、たぶん私の言いたい「やえん」と一緒。
というあたりで、どうも「やえん」てあんまりメジャーな言葉じゃ無いと言うか、知られてない言葉なのかもしれないなー、と思って、私が知ってる解説してみようかと思うけども、私も「見た事がある」だけで、具体的な使い方までは知らんのやけども、山で切り出した木材を搬出する為に使う機器(道具?)で、急斜面だったり道がなかったりする場所から、下まで――今でもそうなのかは知らないし、私が子供の頃に見た「やえん」が木材を「「道」まで下ろす為に使ったのか、「川」まで下ろす為に使ったのかは、分らない。もっと昔。父が子供の頃は、「やえん」は木材を「川」に下ろす為に使って、「筏」状態にして河口周辺に広がる製剤所まで運んだと聞いたように思うけれど、真偽の方は確かめてない。――下ろすために使う、簡単な作りのロープウェーみたいなやつで、私が子供の頃には、夏に(とも限らないけど)ばあちゃんちの近くの川で遊んでいる時なんかに、時々ぶら下がってるのを見かけて、父からあれは「やえん」と言うのだと教えてもらったのね。
父の実家(ばあちゃんち)は十津川とか北山とは違って、熊野川の支流になる場所やけども、筏にして流した、の部分は(いつ頃までやってたのかは不明やけども)間違ってはいないみたい。
と、あったあった。「やえん」で検索したらなかったけども、「木材搬出」で出て来たよ。
pdfはうっとおしいんで、html化とか言う方にリンクするね。
あーあ、何か力つきてきたから、とりあえずここまで。
さて、勝手に力尽きて、勝手に持ち直したw
話が突然「やえん」で失礼しました。ダンナがさ、ここんところは、新しい作業、「雑木伐採」に入ってて、これがどうも中々むずいらしくて、大変だー大変だーと言ってて、そうなんかー、大変なんかー、無茶せんよーにねー、とか話してる今日この頃やねんな。
んで、現場を聞くとかなりの山奥。上のリンクにもあるけども、北山の方みたい。つか、見せてもらった現場周辺の地図が、地形図閲覧システムの地図にとてもよく似てたんで、およよ、と思って改めて調べたらば、地形図閲覧システムは前はβ版だったのが、そうじゃなくなって、それよりも、名前もリンク先も変更になってて、まさ、とりあえずリンク貼っておくね。
国内だけやけども、(私的には)この地図の魅力は「等高線」と、「地図記号」がついてるとこで、googleマップよりも好き。プリントアウトは出来ないらしいけども、プリンタ持ってないから、あんまり関係ないw
まさ、元々が紙の地図なんで、ダンナが持ってた現場の地図を私がウェブ上で確認したみたいな作業になるんやろなーとか思うけども、ほおほお言いながら場所確認して、初めて熊野市(地元では「きのもと」と呼んでいる)と北山ってば、奥のほうでくっついてたのを知って、とてもびっくりしながら、おとーさんが今行ってるらしい現場が、かなりの急斜面ぽいのを、地図を見て再認識して――急斜面とは聞いてたけども、等高線の「詰まり具合」と、後、川辺は、地図記号で言う所の「崖」になってたりするのを見て、おお!と、感心したのだった――、それから、こんなとこからの搬出ってば、今はどうやってるんやろか?と思って、「やえん」でちょっと蹴躓いて、とりあえず、「やえん」について書いておこうと思ったんで――深い意味はない。やえんについて書いたものがなさ過ぎたのが気に入らなかった――、後先あんまり考えずにエントリー上げたんだわ。
が、まだ続くのは、その流れで調べた木材搬出の方法とか、それ用の器機とかが面白くて、まとめるのはむずいけども、ざっくりした流れを追ってみたいなーとか思ったり、後、リンク貼っておきたいな、と。
子供から聞いて(子供は子供のツレから聞いて来た)、エスターク10ターンで倒したよ。
レベル上げて、種つぎ込んで、(私に)考えられる最強と思える方法で、祈るような気持ちで、やった!10ターン!と思ったけども、仲間にならなかったよ。
仲間になる系は罪作りだよねー、聞いた事あるの多かったばっかりじゃなしに、ここに乗ってないのでも、似たようなのって色々あったよね。
なんかさ、実際にあったりそうじゃなかったり、て部分が面白いてのもあるし――「なんとかしたい」て気持ちが「もしかしたらあるんじゃないか」を生むみたいのってあるし――、製作者の人が、その辺を汲んで次回作に繋げたりみたいのがあるてのも、シリーズ物の魅力の一つになってるとも思うしな。
バイオ2の隠しキャラだったハンクは、4のマセーナリーズで出てて、うおーと思ったし、技もすごくカッコよかった。マセーナリーズでトーフは流石に避けたいけどさ(ナイフだけだし)w
たださー、聞いた技は(可能な限りは)たいてい試してた私やけども、騙された~ぷんぷん。みたいのはあんまりないなぁ。
ガセかガセじゃないかは、プレイしたら分る訳やし、つーかむしろ「実際に確かめたい」て気持ちの方がずっとずっと大きくて、ガセに踊るのもゲームの楽しみの一つじゃないかと思うよ。
空振りしたらしたで、とても心に残るしねw
そうこうしながら、柿太郎物語part2.「蜘蛛の恩返し」NscripterVar.は何だかんだで一応の完成をみて、DVD-Rに本体込みでデータとして焼いて、実家に持って行った。
ほんとは、もうちょっといじりたいところもあったんやけども、せっかくの父の力作(?)をこーゆーふーに利用してみたよ、みたいのを見せたくて、とりあえず、ね。
で、以下に利用させてもらったあれこれを少々。
書いてみると、結構大掛かりにも見えるなw。
で、今日は折角なんで(←なぜ折角?と書いてから思った)、このゲーム画面(?)をいっちょ録画して動画仕立てにしてみようと思い立って、ちょっとやってたんだわ。
んで、こっちの方は、まだ完成をみてないけども、テストの方は通ったんで、大胆にもうpしてしまうのだった。
つーか、何時までもアップロードが終わらないんで、ちょっと気になって動画のサイズを見たら、むっちゃでかい。いやさ、コーデックを自分で選んだ訳じゃナシに、ソフトの方で勝手にやっちゃった、みたいな感じやったんやけども、自慢じゃないけど、いいやつも入ってる訳で、もしかしたら、「最良」のコーデック選んだのかしら?
おっと忘れてた。録画ソフトとして使ったのは、小紅さんの、劇場版 ディスプレイキャプチャー あれて、やつで、ともよちゃんとケロちゃんが居るやつ。
と、ここまで書いてもまだうpが終わらないんで、キャンセルして、エンコードする事にしました。
.aviファイルをエンコードするのに利用しているソフトは、二つあって、一つは、winに付属のムービーメーカーで、これだと.wmv形式になるけども、対応してたなら、サイズは最小。最もよく使ってるのは、フリーウェアの方のTMPGEncやねんけども、およよ、新しいヴァージョンが出てるぽい。乗り換えようかな?
仔犬が、親や飼い主とはぐれて迷子になってしまう。
何も知らない仔犬は、川に落ちたり、他の犬や人間に追いかけられたり、時には親切な野良犬や人間に出会ったりしながら、旅を続け、仔犬ながらも、次第に逞しく賢くなってゆく。
そして、とうとう、懐かしい我が家が見えたのだ。
遠くで飼い主が手を振るのが見える。一声吼えて、そこに向かって緑の大地を駆け出す仔犬。
てところで、ストップモーション。楽曲が流れてエンドロール。
無事に戻れてよかったなぁ、逞しくなったもんだなぁ、と、映画館の座席に座った私は、胸を撫で下ろした。
と言う夢を見た事があって、夢の中で映画やTVを見ている、と言うんじゃなくて、夢の中身が当初は全て「仔犬物語」だけで、ただ仔犬の行動を見続けてるの。
夢を見ている夢を見る、ってのはそれまでも時々あったけども――つーか、金縛りに合う時なんかは、起きても起きても夢の中、て感じですごく消耗する――、「私は映画を見ていた」と夢の中で気がついたのが、ストップモーションがかかった時で、それから、夢の中で、今まで見てたのって映画やったんやなー、と思い直して、それから、夢の中で、そろそろ(映画館を)出ようかな、みたいな事を考えたあたりで、何だか覚醒して来て、おおっ!?と思ったところで目が覚めた。
まさ、上に書いた「仔犬物語」のストーリーの詳細は結構後付やねんけども、川に落ちて犬掻きするシーンとか、緑の芝生みたいなとこで駆け出すシーンとかは、思い出せたりするねんな。後、映画館だと気がついた時には、「仔犬物語」ってタイトルも既に「知って」たりするのも夢の不思議。
にしても、「ストップモーション」が出る瞬間まで、ずっと犬が主人公の夢を見てて、あそこで、一旦犬のお話から覚醒して、その後、映画館に居る私から覚醒する、てな、入れ子になったややこしい夢。かし、何で犬だったんだろ?
で、柿太郎物語part.2「蜘蛛の恩返し」のデジタル紙芝居化を目指してぐちゃぐちゃ遊んでる訳やけども、まさ、差し当ってはまるっきり公開みたいのは、考えてない、お勉強――て言うのはかなり語弊があるとは思うけども、お遊び、と書くには、ちょっとばかり「学習項目」みたいのが多過ぎるようにも思えて、つーか、遊びと学習の線引きそのものが微妙ちゃ微妙やけども、楽しみの部分よりは、学習要素のが気持ち多いしなーと思って、お勉強と書いてみた訳やけども、ここまで書いてから、やっと「チュートリアル」てな言葉を思い出して、おーそれそれ、私てば、只今「Nscripterのチュートリアル」をプレイしてる状態なんだなー、と思い当たった。――がらみの実験なんで、さして深く考えたりもしないで、てきとーに気に入った画像をDLしちゃ、勝手に加工して利用してる訳やけども、さて、こんな風な形で公開されてる写真やら画像やらの著作権てどうなってるのかなー、と、今更のように気になって来て、ちょっと調べた。
ほうほう、面白いな。引用とか、教育目的の場合とか、色んなケースが想定されてて、勉強になるー。だけども、これは、プロカメラマンのお話ぽいな。
一般人が風景を撮ったりした写真をウェブにUPしてるやつって、どこまで著作権なのかは、かなり微妙な線て気はする。ほれ、モブログに写メうpてば、私もやってるし、少なくとも、あれで著作権うんぬんを言おうとはあまり思えないもんな。
こんなのって、例のGoogleストリートビューじゃないけども、その写真の利用てのは「著作権を侵害してるのか?いないのか?て問いの立て方」じゃどっか違ってるんじゃないかって気がする。
ただ、平凡に考えて、自分が撮った写真でもないのに、自分が撮った事にしちゃったり――元々そういった意図のあるなしに関わらず、そう思われてもしょうがないような状態にしている事も含むつもり――、恣意的な利用によって写真を撮った人に迷惑がかかるような場合、簡単に言うならば「悪用」やね――心霊写真仕立てにして、公開してみたり(流言と言ってもいいのかな?言葉じゃないけど)、写真と個人情報を紐つけた情報を公開したり(プライバシーの侵害かな?)、みたいのは、著作権以前の問題でアウトだよな、と思う。
後、めんどいな思うのは、営利目的の写真と個人のスナップが思う存分混在してる只今のウェブですと、私みたくイメージ検索して、その画像が用いられてるサイトの方は必ずしも見る訳じゃない上に、元イメージの最大化から、気に入ったやつをDLしたりしてますと、その区別があんまりつかないんだわ。
(営利目的と言える)企業のサイトだけじゃなしに、個人のサイトでも、営業目的のサイトと、そうじゃないサイトとでは、写真のポジションみたいのがかなり違ってくるだろうなー、とも思うけど、そっちの方の区別もつかない(すみません。つかないんじゃなくて、めんどいからつけようとしていない、でした)。
いやね、私が雑で乱暴だから、てのもあるかもしれんけど、個人で画像を利用する際て、そんなもんじゃないの?
もっともね、ウェブに公開してるぶんには、ある程度の2次利用(気に入った写真を壁紙にするとか、そんなの)は織り込み済みだろうと思ってるし、だいたいが、写真で喰うのと、写真の著作権で喰うのとは、かなりニュアンスが違うんで、そこら辺もむずいよなー、と、改めて思った。
あー、そうそう、後、肖像権ね。写真を撮る事を許可するのと、その公開を許可するのとではかなり範囲が違って来るし、一般人と有名人とでも抱える問題て、変わってくるよな。
こう考えてると、「写真」てのは、営利と非営利てな関係だけじゃナシに、撮影者と被写体――これが又、人、もの、風景の違いから、何からで違って来るし――の両方が無いと成立しない、みたいな部分も絡んでくるし、とは言え、同じ被写体を複数が撮影する事も可能だったりもして、複雑なもんだよなー、と、つくづくと。
あー、そうそう、著作権とか肖像権とか、そんなのとはあんま関係ないけども、今回画像探ししてて、とても面白いなと思ったサービスがあったんで、ここに書いとくね。
この検索エンジンの画像検索についてるスライドショー機能が、とても楽しい。
後、アルバム表示てのもあって、しかも軽い。
こないだ書いたプレコックス感のつづきのところで、霊感と疑似科学のと境界が曖昧だからみたいな事書いたけども、さっき、ちょっと思いついたところがあるんで、メモ。↓ここんとこの事
#ただねー、こんなんって、似非科学との境界がとてもとても曖昧になってしまう上に、何でもアリにもなってしまいかねないんで、怖いちゃ怖いねんけども、必ずしも無いとも言えないんじゃないのかな、と、思ってしまう非科学的な私。
「説明できないはずものを無理筋で説明しちゃって、科学を装っている」のが疑似科学、みたいな分け方は出来るかもしれないな。と。
まさ、科学のフリをしてるのが疑似科学だから、元々オカルトとは別のもんやけども、私の立場てば、、No:疑似科学Yes:オカルトて感じかもしれないな。
で、行き当たりばったりだと、自分が何やっていいかが、分らなくなってしまうように思えて、と言うか、分らなくなって、当初の予定通り(?)、蜘蛛の恩返し(=Spider's Repay)のデジタル紙芝居化にトライする事にしてしまった。
いや~、いんたーねっとすげー。
いやね、もう随分昔の事になるんやけども、私の初めてのPCはmacのperformerで、まだ、DirectXが出たばっかりの頃で、PCをコンシューマゲーム機の上位機種だと捉えてた私は――この事を子供や子供のツレに話したら、むちゃくちゃ馬鹿にされた――、ゲームするんだからmac、て感じで何の迷いも無く、ダイエーで安売りになってた一体型performerを(へそくり全てはたいて)買って、買ってしまってから、スペックの低さと、パソゲーのお値段の高さにびっくりして、それでもパソコン通信たらいうのをやったらフリーゲームと言うのがプレイできるらしいから、そこで埋め合わせようと思っていたら、当時のPCでは、モデムは「別売り」で、しかもお値段が40,000円ぐらいして、しかもしかも、ネットに繋いだりしたら、通信費がむちゃくちゃかかってしまうとダンナに脅され、何だか八方塞がりだよなー、とか思いつつ、それでも、初めてのPCはそれはそれは面白く、度々OSのインストールしたり、強制終了したりしながらも、楽しく遊ばせてもらってた。
てな、大昔のmacのお話をイマサラ書いた理由は、それなりにありまして、あの時、私はmacにHyperCardてのがあるのを知って、おお、これやったら、選択肢で進んでいくタイプのアドベンチャーゲームぐらいやったら、かなり簡単に作れそうじゃん、とか思って、やってみようとしてたのよ。
が、あっちゅうまに挫折した。
ゲームと言う形に行く以前に、「絵」を描くのにくたびれてしまって、ああ、私が3人ぐらい居たらなー、とか思いつつなげてまったのよ。
ちゃんと考えてみたら分る事やねんけども、ビデオゲームってば、大部分が視覚化されてるのよね。壁の様子なんかは、元々ついてたオマケ画像で何とかなったけども、ここにこれがあって、の「これ」とかこれを足で蹴っての「足で蹴る」とか、ドアを開けたら噴水があった、の「噴水」とか、それはそれはびっくりするぐらいの画像データが必要で、しかも、こっちの武器はキッドピクスだけの上に、ハイパーカードの方は、色をカバーしてなくて、しかも音声は、元からmacに内蔵されてたビープ音ぐらい。
たとえたいそーな事考えてなかったとしても(いや、実際たいそーな事は考えてなかった)、それを実現するのは、結構困難でありまして、狭い部屋から(自分で作った手掛かりを自分で探して←百発百中!)、抜け出して、大広間に出て、壁にあった割れ目を発見した、てなあたりで、私の初アドベンチャーゲームもどきは空中分解してしまったのよ。
が、今回。インターネットすげー。至る所「素材」だらけ。しかも、フリーソフトでその素材をかなり自由にカスタマイズ出来て(当然のようにフルカラー!!)、音の方も、CDからひっぱりーの、ネットから拾いーの、出来てしまって、ソフトの力でもって、エフェクトも楽々。
そんな訳で、すげーらくー、と、感動しながら、たぶん、2、3日中には、デジタル紙芝居「蜘蛛の恩返し」は完成しそうよ。
うみねこやってたら、ひょっこり気が向いて、ついついNScripterをばちょっと弄ってみたくなってしまって、うっかりDL。
いやさ、(1)オリスク作ってみようとはあんまり思えなかった訳やけども、沢山の有名同人ゲーを作った、「あの」NScripterって、どんなんやろか?と何だか気になって来て、それならば、触ってみるのが一番だよな、つか、フリーソフトなんだもの、ちょっとぐらいいいよね??ね?と、誰かに言い訳する必要もないねんけども、何だかごめんねー、こんなんで、とか思いながらも、(2)解説サイトとかも当って、ほぉぉ、ノベルゲーム専用ソフトってこんなんなんやー、と感心しつつ、何にも無いんじゃ結局何にも出来ないよなーとか思って、とりあえず、日頃見かけたら拾ってしまうネコ画像を利用して、「みけーれたち」を登場させてみる事にした。
いやさ、(たぶん)自分で絵を描いた方が簡単だったんじゃないかとは思ってたけども、そこはそれ、素材に感情移入出来ないと、楽しさが半減しちゃうじゃないのさ。
という訳で、短い文章に三匹の(実写)ネコを登場させる為に、ず~~っと、ドットをポチポチやって、予想以上に、素材の準備にばかり時間を喰ってしまった。
これが、三匹が順番に登場して、ピンクの声で鳴いている、てなシーンとしては、3番目のところ。
スクリプト以前に、photo関連のフリーソフトを先に探した方がよかったのかなぁ、とか思いながらも、こんな作業って、無駄に楽しいんだよね。
あーあ、お話作れる能力みたいのがあったらば、もっともっと楽しいんだろうなぁ。
じいちゃん(=父)みたく、ストーリーの方は、お馴染みの昔話にでもして、とりあえず、デジタル紙芝居みたいな形にしてしまおうかなぁ。
それやってたら、使い方みたいのも一通りわかるんじゃないかなぁ。いやさ、さしたる目的はないねんけどもね。うん。ついよ、つい。
三匹の子猫(三匹の子豚にちなんだ)とか、三匹ネコのにゃんにゃかにゃん(三匹山羊のガラガラドンにちなんだ)とかにしといたら、お話考えなくてもいいじゃん。わー、父の娘だ。
あー、後、三匹の名前は、「みけーれ」「こみけーれ」「まごみけーれ」。やけくそやな。
ちなみに、この三匹の中央に居る三毛猫は、例の和歌山電鐵貴志川線「たま駅長」で、後にひかえるチャトラは、助役のミーコです。子猫の方は、適当に拾って来たやつw
元文を当ろうと思ったら、引っ越しのごたごたでどっかにしまい込んでるみたいで、本棚にはなかったんで、とりあえず記憶で書きます。
元文てのは、カナダエスキモー@本田勝一にあった一文てで、結構昔読んだ本だったのが、ひょっこり思い出したぐらいだから、結構印象的な部分だったんじゃないかとは思う。
この本も、本田勝一のルポルタージュのひとつで、私は、エスキモーに特に興味があった訳じゃないけども、大島弓子のいちご物語が大好きで、漠然とラップランドてどんな所なんだろう?みたいな憧れを持ってて、エスキモーの暮らしが書かれた本ならば読んでみよう、と思って買ったのだった。
本書が手元にないんで、引用すらままならず、印象だけのお話になってしまうけれど、極地での暮らしや、夫婦の分業のあり方、狩で暮らしを立てる様子なんかが具体的に書かれてて、とても面白かった。
さて、そのぐらいおぼろげな記憶が、 ヴェジタリアンから幾つかてなエントリーを読んだら、急に出て来たんだわ。
前半部分は、まぁそうですか。てな感じです。私個人は、食べる事にあまり大きな拘りはなく、腹が減ったら腹具合に応じて食べるて感じで、ベジタリアンも、美食も、どちらも別世界の人といった印象の方が大きいので、そう言う意味で面白い(珍しい)、てな感じでした。
だけども。
そんなのわかるわけねえじゃねえか。少なくともそんな単純なものではない。例えば、狩猟が日本と比べてはるかに文化として根付いている米国(それも開拓時代の米国)でも、『子鹿物語』のようにそれなりの葛藤がある*4。また、日本では様々な〈供養〉文化が発達している。さらに、アイヌのイヨマンテを初めとして、殺生に対しては複雑な神話的・儀礼的な正当化が要請されることも多々ある。単純だと思うもう一つのことは、「かわいそう」と「わらってころす」の二分法。殺生という対人関係或いは対動物関係にはエロティックな側面、ハレとしての側面があるが、その二分法はそうした関係の濃さを消去してしまうのだ。殺生のこうした側面については、横井清『的と胞衣』所収のテクストを参照して、さらに考えたいのだが、この本は今手許になし。ところで、エロティックな関係としての殺生ということを考えるきっかけとなったのは、ペドロ・アルモドバル監督の『トーク・トゥ・ハー』の女闘牛士・リディアがコスチュームに着替えるシーンだったのだ。
この一文には、結構違和感がありました。
てのは、このカナダエスキモーの中ひとりの登場人物で、リーダー的ポジジョンに居る男性――と言っても、たしか、書かれた時点で既に少数民族で、4世帯ぐらいの狭い世界の暮らしだったように思うけども、それも確かめようが無いです。ご存知の方がいらしたら、そこら辺、教えてもらえると嬉しいです。――が、幾分、「西洋文明」に興味を持っていて、かつ、向上心が強いタイプだったんですね。
で、彼は、自分と近しい場所に居る他者であるところの、キリスト教文化を少しずつ学んでいまして、その事によって他のメンバーが「持っていない」狩に対する「罪悪感」を持ち始めたように見えた、みたいな記述がある訳(正確には、あったように思った、ですが)ですよ。
てな前提で考えて見ますと、最初に宗教的な生命倫理のようなものがあって初めて「葛藤」が生まれた訳で、必ずしも「葛藤」は自然発生的なものとは言えないんじゃないかと思うんです。
私は、「子鹿物語」読んではいませんが、「開拓時代の米国」てのは、かなりカトリック的な宗教観が強い世界だったんじゃないかとも思えるので、見方を変えるならば、かなり「固有」の宗教観を前提として書かれたものと考えても差し支えないように思えます。
また、キリスト教圏では、動植物を「擬人化」する事も少なくないので、いっそう葛藤が強まりやすいようにも思えるのです。
次に、日本に於ける「供養の文化」がどういったものを示しているのかは、この文章からは分かりませんが、基本的に「死者の供養」は、「死者を恐れる」事から始まった、かなり「本能的」な側面の方が強く、「かわいそう」とは、直接的には結び付かないんじゃないかと考えています。
狩猟ならば、アイヌを引かずとも、日本でもマタギというものがあり、彼らも、かなり独特の宗教的な儀式を行っていたようです。
が、私はこれらを、殺生への罪悪感を正当化する為のものと言う見方はしません。
狩猟に限らず、よりバクチ要素の強い活動ほど、ゲンを担ぐ傾向が強い、で、充分説明可能じゃないかと思うのです。
もちろん、そんな簡単なものじゃないのかもしれません。が、「かわいそう」て、結構簡単な部分があるんじゃないのか、とも思っているのです。
丁度いい具合に、(読んでないけど)「子供のかなしみの世界」と言う本へのリンクが張られていて思い当たったのですが、私個人の感覚(と、体験から)に過ぎないので、当然一概には言えないのですが、「子供のかなしみの世界」と言うのは、「恐怖」と言う本能的な部分を元に形作られている部分が少なくないと感じています。
わたくしごとで恐縮ですが、私は子供の頃、尾頭付きの、と言うか、目玉のついている魚が食べられませんでした。「かわいそうだから」と言った私に、「やさしいのね」と言った大人が居た訳ですが、そう言われても、私は、自分がやさしくない事は分っていました。そして、そこで「かわいそう」は、つまり「怖い」だったんだと気がついた訳です。私は、魚に「恨まれそう」に思えて、魚が食べられなかったんです。
子供の「かわいそう」は、少なくとも私の場合に関して言うならば、とても利己的なものでした。
死にしても、エロティックなものにしても、それは、どこまで行っても個人的で利己的なものではないでしょうか。この文脈(生活者として生き物を殺す人について書いていると思っています)で、それを出すのは、アンフェアであるように思いました。
又、「殺生」と言う言葉の用い方も、恣意的であるように思えました。喰う為に殺すのは「殺生」と呼ばないと思っていたのです。
ところが、本文では、狩猟を生業とする人の為す儀式を、「殺生」を正当化する為になされている、と言う風に解釈されている(私には、そう読めました)。
これでは、「供養」と「殺生」がセットになってしまんじゃないでしょうか?キリスト教と仏教が入り混じっているように思えます。
もちろん、私にその細かい区分は分らないし、今の私たちの文化では、そういった混同も、心情的にはわかる気もするのですが、正直嫌な混同だと思いました。
ただ、「死とエロス」とか「殺しと言う行為」みたいなテーマは、とても興味深いとは思っていますので、こういった事とは別の文脈で一度読んでみたいと思います。
さて、前のお話が尻切れトンボになってしまったのには、(一応)それなりの訳がある。
あれがきっかけになって、二つの事が気になって、それがうまい事繋がらなくて、どっちを、又は、どっちから書いた方がいいのか?みたいな気分と、この二つの事が、前に書いた私の「プレコップス感(かもしれない)」体験とはあんまり関係ない事なのとで、自分でも何から書いたらいいのかが分らなくなってしまったから、てのが最大の「訳」やけども、思いついた二つの事そのものが、既にどちらも夫々別方向の、何だかものすごい広がりを持っていて、どうにもこうにも手が出ないよなー、と(勝手に)困ってしまったのだった。
とは言え、何度となく考えた事だったりもするし、一方で文章化した事はまるっきりなかったりもした事だったりもするんで、とりあえずだらだらでもいいから書いてみる。
先ずは、二つの事について。
一つは、「私の正常」への猜疑心についてで、もう一つは、言葉じゃない(≒言葉に出来ない)情報について。
ね、全然ベクトル違うでしょ。
んで、どう考えても、まるっきり方向性が違うんで、差しあたっては、どっちかで言うと「書き易い」ように思える言葉に出来ない情報から書いてみようと思う。
けど、疲れたんで、もうちょっと後から書きます――←ここの部分は後から消すかもしれない。出来るだけ、書き直さずに、線を引いて訂正したいとは思ってるけども、時々、それじゃ読みにくいよなーと思う事もあって、そんな時には、ざっくり書き直したりもします――。
とと、元エントリーの関連エントリーのリンク先に、私が考えてた事と似てる事が書いてる。
こちらのエントリーは、もっと科学的だけども、基本的な部分で、私の考えてた事と結構クロスしてたりしてるようにも思えて、ああ、慌てて書かなくて良かったw。
いやね、私が書こうと思ってたのは、「霊感」についてで、私の場合は、このリンク先みたく科学的なもんじゃないけども、結構長い間、「霊感」てのは、洞察力は優れているけれども、言語化が稚拙だったり、あるいは心霊現象を内面化している為に心霊的な表現になってしまっている状態から発せられた言葉って部分も少なくないんじゃないかと思ってたのよ。
で、臭いから霊感って結構飛躍ちゃ飛躍やねんけども、最初に元エントリー読んだ時に、臭い「だけ」ってもんでもないんじゃね?と思ったのが、霊感への飛躍の元でもあった訳んだわ。
ものすごく多くの情報を得る力があって、だけども出力の部分に説得力に欠けていたり、ある種のバイアスがかかったりする為に、「霊感」てな表現に貶められてはいるけれども、それは必ずしも非科学的なものではないんじゃないのか?みたいな気持ちがある訳よ。
又、一方で、それを非科学的なものと断定してしまうような態度も、ある意味非科学的なんじゃないのか?と。
ああ、言葉が足りてない。私が言う霊感は、霊能力者とかそんな特別な人の話じゃなくて、もっとふつーに私の周りに居る、勘がいいとか、霊感がある、てやつで、だいたいが、自分でそうは言うけども、特に自分をアピる為に使う訳じゃないような場合。そんな人が、ひょっこり口にする霊感てやつ。
何かの拍子に、悪い予感がするから止しておこう、と言ったり、死んだばーちゃんが泣いてる声が聞こえたから止めにしたんだよ、みたいな類の話で、私が(いわゆる)人間的に充分信頼している人が口にするところの、霊感の事。
私は、そんなの聞いた時には、充分な裏づけが無くても、大抵従っちゃうんだよね。死んだばーちゃんの声は思い過ごしだろー、と思ってはいても、「止めた方がいい」て判断に関しては、根拠が無くても採用しちゃうのよ。
むーん。残念。「プレコックス感」と言うのにかなり興味を持っていたのだ。
私がこの言葉を知ったのも、このエントリーのリンク先にある、サイコドクターぶらり旅(当時は、「暴れ旅」だった)の総合失調症に関する記述のところやねんけども、へぇ~そんなのがあるんだ、以上の強い興味を持ったのは、書いた人であるところの、風野先生には感じられなかった(らしい)けれども、分る人には分るらしい「プレコックス感」てどんなものなのかをとても知りたいと思ったからだったんだわ。
が、その時調べた限りでは、結局どんなものなのかは分らず、又、風野先生はどちらかと言うと好ましくない方向から、この「プレコックス感」について書かれていたし、これを診断の基準にみたいなのにするのは、マズいんじゃないかなー、と、私も感じたりしたし、それ以上に、私は(さし当っては)総合失調症を煩っている訳でもないので、機会があれば考えてみてもいいかな、みたいな感じで記憶の片隅に追いやっていたんだわ。
まぁ、この際だから書いてしまうと、多くの人が私と似たような経験をしているのかどうかも不明なんで、気にする事自体があまり意味がないのかもしれないけれど、私は、たま~に、「何とも言いようのない独特の雰囲気を持っている」と言われることがあって、それは、必ずしも褒めているってニュアンスじゃなくて、面と向かって「変な雰囲気」と言われた訳ではないけれど、少なくとも「よいもの」とは言えない、何とも言い難い独特なものを感じさせる事があるみたいなんだわ。
以下、具体例と言うか、私が「プレコックス感」についつい反応してしまうようになった、幾つかの体験について書いてみる。
小学中学年の頃、ハンドルでも時々使っている「naoke」と、呼ばれるようになった訳やけども、それまでは「なおちゃん」と呼ばれる事が多かった。
が、同じクラスにもう一人「なおちゃん」が居て、イントネーションが違っていたんやけども、「どっちのなおちゃん?」みたいな混乱が起きたのね。
その時、誰かが面白がって私を「なおけ」にしてから、すっかり定着した訳やねん。
でもさ、「け」って突拍子もなくね?ところが、何故か本名の名前よりも、むちゃくちゃ定着率がよくて未だに古い友人からはそう呼ばれてる訳やけども、ある時、あーこの子「なおけ」って呼んでるんやで~、みたいな感じで、新たに遊ぶようになった「りっちゃん」に私を「なおけ」と呼んでる友人が紹介したらば、「りっちゃん」が、つくづく感心したみたいに、まじまじと私を見てさ、こう言った訳よ。
いやいや、「け」が、そうとしか言いようがない雰囲気ってどんなんやねん?とは思ったけども、何だかいわく言い難い雰囲気みたいのが、どうも(当時の)私にはあったらしいねんな。ええとかわるいとかは抜きにして。
で、中学に入った。
中学で新しく出来た友人に、「マコ」てのが居て、私の第一印象は、うわーごっつ可愛いー、こんな顔した子もおんねんなー、ガタイはでかいのに(太っているんじゃなくて、大柄だった)、むっちゃ可愛いやん。それに何かセンスがいい(ような気がする)。
んで、私は、そのマコと英語塾が一緒で、考えてみたらクラスが一緒になった事はなかったけども、ぼんやりとしたうちらのグループみたいのが一緒で、しゃべったり遊んだりはしてたんやけども、テストが終わった後ぐらいやったやろか、タマタマ「マコ」と二人になってしゃべっていた時に、ひょっこり言われたのよ。
いやさ、確かに賢く振舞ってたとは思えんのやけども、この「アホの子」てのは、ぶっちゃけ「池沼」みたいなソッチ系のニュアンスのある言葉で、「勉強が出来ない子」てのとは、少しニュアンスが違う言葉やねん。
今になって(遅すぎるように思う)考えてみるに、どの辺にそれを感じたのか聞いてみた方が良かったのんやろか?とも思えるねんけども、当時の私は今以上に鈍かったんで、そーなんかー、私ってそーゆー風に見えてたんかー、で、終わりにしてしまってて――げげっ、ほんと、書いてみて初めて思ったけども、こんな風な部分が、もしかしたらソッチを感じさせたんかもしれん――、具体的にどんな部分でそれを感じさせたのか、今となっちゃ知りようがないねんけども、ほぼ第一印象として、そんなもんを感じさせる「何か」が、私にはあるのかもしれないなー、と、漠然と思ったのよ。
こんな経験って多いんですか?誰にでもある事なんですか?
で、その後、そんな事もすっかり忘れてたんやけども、思い出してしまうような事が起きたのよ。
神戸の北区の市住に住んでいた時の事。
あの手この手を使って、うちらは、む上を乳幼児保育に送り込む事に成功したのよ。
当時、公立の保育園に乳幼児を入園させるのは、神戸の北区じゃかなり困難で、貧乏だったから(過去形は正しくない)、何とか仕事を探して、現金収入が欲しかった私は、最初は無認可の保育園に子供を預けて、その後、やっと、公立の保育園に子供をねじ込む事に成功したのだった。
でね、この保育園が、何故か「精神病院」付属の保育園だったの。
前の無認可の保育園に比べると、環境もいいし、先生も沢山居るし、送り迎えは大変だったけども、保育料もずっと安くなったし、で、私はかなりご機嫌だったの。
そして秋。保育園で「運動会」が催されたの。
オムツが取れたばっかりのむ上が、いっちょ前に、保育園の体操服を着て、まだ若かったうちら夫婦も大はりきりで参加して、それはそれは楽しかったんやけどさ、む上の「お遊戯」を見ていた私に、話しかけた人が居たんだわ。
年配の、大人しい感じの女性だった。
いやね、もちろん失礼じゃないけども、ちっちゃい子が沢山、と言うか、キホンが、保育園の運動会だった訳で、病院の運動会じゃなかった訳よ。で、私はきっちし、ジャージの上下着込んで子供の演技を応援してた訳。状況からはあんまり間違わないんじゃないのかなー、とは思ったの。
ま、そんな訳で、ダンナのとこ行って、入院してる人に間違われたわー、と、軽く言ったらさ、
えっ?そうなん?そうやったん?てか、その判断基準みたいのが(私には)全く見えん。
けども、特定の人に、何か独特の印象を与えるもんが私にはもしかしたらあるんかもしれん。何か分らんけども。みたいな思いを持ってたのよ。
で、「プレコックス感」てな言葉に出合って、むーん。総合統合失調症ねぇ。あんま心当たりないけども、自覚があったら、(ある意味)病気とは言えんのかもしれんから、心当たりの方は、とりあえず脇に置いといて、「プレコックス感」と呼ばれるらしい、一種独特の雰囲気だか違和感だかが「どんなもん」なのかは、是非とも知りたいもんだ、とずっと思ってるのよ。
さて、リンク貼ったエントリーでは、もしかしたら「プレコックス感」てのは臭いなんじゃないか?みたいな仮説(は、大袈裟ですね、すみません)を出してて、ふうむ、と考えてしまった。