元文を当ろうと思ったら、引っ越しのごたごたでどっかにしまい込んでるみたいで、本棚にはなかったんで、とりあえず記憶で書きます。
元文てのは、カナダエスキモー@本田勝一にあった一文てで、結構昔読んだ本だったのが、ひょっこり思い出したぐらいだから、結構印象的な部分だったんじゃないかとは思う。
この本も、本田勝一のルポルタージュのひとつで、私は、エスキモーに特に興味があった訳じゃないけども、大島弓子のいちご物語が大好きで、漠然とラップランドてどんな所なんだろう?みたいな憧れを持ってて、エスキモーの暮らしが書かれた本ならば読んでみよう、と思って買ったのだった。
本書が手元にないんで、引用すらままならず、印象だけのお話になってしまうけれど、極地での暮らしや、夫婦の分業のあり方、狩で暮らしを立てる様子なんかが具体的に書かれてて、とても面白かった。
さて、そのぐらいおぼろげな記憶が、 ヴェジタリアンから幾つかてなエントリーを読んだら、急に出て来たんだわ。
前半部分は、まぁそうですか。てな感じです。私個人は、食べる事にあまり大きな拘りはなく、腹が減ったら腹具合に応じて食べるて感じで、ベジタリアンも、美食も、どちらも別世界の人といった印象の方が大きいので、そう言う意味で面白い(珍しい)、てな感じでした。
だけども。
そんなのわかるわけねえじゃねえか。少なくともそんな単純なものではない。例えば、狩猟が日本と比べてはるかに文化として根付いている米国(それも開拓時代の米国)でも、『子鹿物語』のようにそれなりの葛藤がある*4。また、日本では様々な〈供養〉文化が発達している。さらに、アイヌのイヨマンテを初めとして、殺生に対しては複雑な神話的・儀礼的な正当化が要請されることも多々ある。単純だと思うもう一つのことは、「かわいそう」と「わらってころす」の二分法。殺生という対人関係或いは対動物関係にはエロティックな側面、ハレとしての側面があるが、その二分法はそうした関係の濃さを消去してしまうのだ。殺生のこうした側面については、横井清『的と胞衣』所収のテクストを参照して、さらに考えたいのだが、この本は今手許になし。ところで、エロティックな関係としての殺生ということを考えるきっかけとなったのは、ペドロ・アルモドバル監督の『トーク・トゥ・ハー』の女闘牛士・リディアがコスチュームに着替えるシーンだったのだ。
この一文には、結構違和感がありました。
てのは、このカナダエスキモーの中ひとりの登場人物で、リーダー的ポジジョンに居る男性――と言っても、たしか、書かれた時点で既に少数民族で、4世帯ぐらいの狭い世界の暮らしだったように思うけども、それも確かめようが無いです。ご存知の方がいらしたら、そこら辺、教えてもらえると嬉しいです。――が、幾分、「西洋文明」に興味を持っていて、かつ、向上心が強いタイプだったんですね。
で、彼は、自分と近しい場所に居る他者であるところの、キリスト教文化を少しずつ学んでいまして、その事によって他のメンバーが「持っていない」狩に対する「罪悪感」を持ち始めたように見えた、みたいな記述がある訳(正確には、あったように思った、ですが)ですよ。
てな前提で考えて見ますと、最初に宗教的な生命倫理のようなものがあって初めて「葛藤」が生まれた訳で、必ずしも「葛藤」は自然発生的なものとは言えないんじゃないかと思うんです。
私は、「子鹿物語」読んではいませんが、「開拓時代の米国」てのは、かなりカトリック的な宗教観が強い世界だったんじゃないかとも思えるので、見方を変えるならば、かなり「固有」の宗教観を前提として書かれたものと考えても差し支えないように思えます。
また、キリスト教圏では、動植物を「擬人化」する事も少なくないので、いっそう葛藤が強まりやすいようにも思えるのです。
次に、日本に於ける「供養の文化」がどういったものを示しているのかは、この文章からは分かりませんが、基本的に「死者の供養」は、「死者を恐れる」事から始まった、かなり「本能的」な側面の方が強く、「かわいそう」とは、直接的には結び付かないんじゃないかと考えています。
狩猟ならば、アイヌを引かずとも、日本でもマタギというものがあり、彼らも、かなり独特の宗教的な儀式を行っていたようです。
が、私はこれらを、殺生への罪悪感を正当化する為のものと言う見方はしません。
狩猟に限らず、よりバクチ要素の強い活動ほど、ゲンを担ぐ傾向が強い、で、充分説明可能じゃないかと思うのです。
もちろん、そんな簡単なものじゃないのかもしれません。が、「かわいそう」て、結構簡単な部分があるんじゃないのか、とも思っているのです。
丁度いい具合に、(読んでないけど)「子供のかなしみの世界」と言う本へのリンクが張られていて思い当たったのですが、私個人の感覚(と、体験から)に過ぎないので、当然一概には言えないのですが、「子供のかなしみの世界」と言うのは、「恐怖」と言う本能的な部分を元に形作られている部分が少なくないと感じています。
わたくしごとで恐縮ですが、私は子供の頃、尾頭付きの、と言うか、目玉のついている魚が食べられませんでした。「かわいそうだから」と言った私に、「やさしいのね」と言った大人が居た訳ですが、そう言われても、私は、自分がやさしくない事は分っていました。そして、そこで「かわいそう」は、つまり「怖い」だったんだと気がついた訳です。私は、魚に「恨まれそう」に思えて、魚が食べられなかったんです。
子供の「かわいそう」は、少なくとも私の場合に関して言うならば、とても利己的なものでした。
死にしても、エロティックなものにしても、それは、どこまで行っても個人的で利己的なものではないでしょうか。この文脈(生活者として生き物を殺す人について書いていると思っています)で、それを出すのは、アンフェアであるように思いました。
又、「殺生」と言う言葉の用い方も、恣意的であるように思えました。喰う為に殺すのは「殺生」と呼ばないと思っていたのです。
ところが、本文では、狩猟を生業とする人の為す儀式を、「殺生」を正当化する為になされている、と言う風に解釈されている(私には、そう読めました)。
これでは、「供養」と「殺生」がセットになってしまんじゃないでしょうか?キリスト教と仏教が入り混じっているように思えます。
もちろん、私にその細かい区分は分らないし、今の私たちの文化では、そういった混同も、心情的にはわかる気もするのですが、正直嫌な混同だと思いました。
ただ、「死とエロス」とか「殺しと言う行為」みたいなテーマは、とても興味深いとは思っていますので、こういった事とは別の文脈で一度読んでみたいと思います。
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